April 04, 2021

思出の記・神谷小学校時代1

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写真は現在の神谷小学校。
富士見幼稚園を卒園して神谷小学校に入学した。私は団塊の世代の昭和23年の生まれで、青年期までは前年の22年生まれの人口の方が多かった。今はおそらく24年生まれが多いのではないか。
戦後すぐということもあって、小学校に段階の世代を収納できるキャパがなく、授業は午前・午後の2部制で行われていた。
この当時の神谷小学校にはプールがなく、夏に近づくころに大きな円形の折りたたみプールを校庭に設置しプールの代わりとしていたが、子どもが多く入るので、どちらかというと行水といった感じである。
学校行事で唯一覚えているのが、学芸会でペンギンの踊りを行ったことで、股引だかタイツだか下着をペンギン風にアレンジして着ていたような気がする。

April 02, 2021

思出の記・神谷町2

神谷町にいた時代、東に行くと隅田川にぶつかる。そこに渡し船があって、船を漕ぐ若い衆がタダで乗せてくれたという記憶がある。何をしに、どこへ行くかといった目的があったわけではなかったようだ。
この渡しを降りてさらに東に行くと荒川になる。おそらくその土手でぼおっとしたかったに違いない。
今、荒川といっているが、これは人工の川で、私としては荒川放水路という名称の方がすんなりとする。

March 29, 2021

思出の記・神谷町

私が幼稚園から小学2年前半まで住んでいた北区神谷町とその周辺について触れてみたい。
この当時、駅名は下十條駅で新小岩に引っ越してすぐに駅名が東十条に変わったが、住んでいるときのイメージが根強く、つい下十條の名が浮かんでしまう。
京浜東北線だから駅の西側は山側になり、駅から北側に少し行ったところに、トンネル状の穴が掘られていた。横穴だから防空壕とは違うようだが、その穴に入ることができたので、冒険気分を味わうことができた。
あまり商店街のことは覚えていないが、工場の焼け跡のような広場があって、そこで野球をした覚えがある。もちろん小学低学年なので守備は外野で、工場の壁だけが遺された場所での守備でもあった。
住んでいたのは大きな家の2階、いわゆる間借りであった。トイレは2階にもあった記憶がある。
この大家さんは、創価学会の人で、そのため母親が創価学会にこの時だけ入っていた。その学会の大きな集会に母親と参加したこともあった。

March 27, 2021

思出の記・スクール馬車・幼稚園2

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現在(2017年2月)の富士見幼稚園。すごく立派だった。
ここでの記憶はほぼ馬車だけで、行事等の記憶はほとんどない。

この時期、多分5歳だったと思うが、疫痢にかかってしまった。
この時、臨死体験のような夢を今でも覚えている。
それは煙突のような円筒の中を黒いいくつもの球と上昇していくという感覚である。
それ以外には、直径3〜4センチほどに感じられた太い注射器で血液のようなもの打たれたという記憶が残っている。



March 26, 2021

思出の記・スクール馬車・幼稚園

新小岩、昔は下小松に生まれ、赤羽に引っ越した。
そしてすぐに東十条、町名では神谷町にまた引っ越し。ここでは小学2年の1学期までいたことになる。
保育園に入っていたかは記憶にないが、幼稚園のことは覚えている。
それはスクール馬車に乗っていたことを覚えているからだ。
どこの幼稚園であったかはわからなかったが、北区、馬車、幼稚園でネットを調べたところ「富士見幼稚園」であることがわかった。
住まいが幼稚園の近くにあったことから、この馬車に乗る必要がなかったが、園児を送る馬車に乗り、その馬車が園に戻ってきてから家にとことこと帰って行くということをしていた。

ちなみに北区は川を越えると埼玉県、普通の道路でも大八車を引いた馬車をこのころは見ることができた。その荷物は肥桶だった。また、道路に馬糞も落ちていた。