March 29, 2021

思出の記・神谷町

私が幼稚園から小学2年前半まで住んでいた北区神谷町とその周辺について触れてみたい。
この当時、駅名は下十條駅で新小岩に引っ越してすぐに駅名が東十条に変わったが、住んでいるときのイメージが根強く、つい下十條の名が浮かんでしまう。
京浜東北線だから駅の西側は山側になり、駅から北側に少し行ったところに、トンネル状の穴が掘られていた。横穴だから防空壕とは違うようだが、その穴に入ることができたので、冒険気分を味わうことができた。
あまり商店街のことは覚えていないが、工場の焼け跡のような広場があって、そこで野球をした覚えがある。もちろん小学低学年なので守備は外野で、工場の壁だけが遺された場所での守備でもあった。
住んでいたのは大きな家の2階、いわゆる間借りであった。トイレは2階にもあった記憶がある。
この大家さんは、創価学会の人で、そのため母親が創価学会にこの時だけ入っていた。その学会の大きな集会に母親と参加したこともあった。

March 27, 2021

思出の記・スクール馬車・幼稚園2

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現在(2017年2月)の富士見幼稚園。すごく立派だった。
ここでの記憶はほぼ馬車だけで、行事等の記憶はほとんどない。

この時期、多分5歳だったと思うが、疫痢にかかってしまった。
この時、臨死体験のような夢を今でも覚えている。
それは煙突のような円筒の中を黒いいくつもの球と上昇していくという感覚である。
それ以外には、直径3〜4センチほどに感じられた太い注射器で血液のようなもの打たれたという記憶が残っている。



March 26, 2021

思出の記・スクール馬車・幼稚園

新小岩、昔は下小松に生まれ、赤羽に引っ越した。
そしてすぐに東十条、町名では神谷町にまた引っ越し。ここでは小学2年の1学期までいたことになる。
保育園に入っていたかは記憶にないが、幼稚園のことは覚えている。
それはスクール馬車に乗っていたことを覚えているからだ。
どこの幼稚園であったかはわからなかったが、北区、馬車、幼稚園でネットを調べたところ「富士見幼稚園」であることがわかった。
住まいが幼稚園の近くにあったことから、この馬車に乗る必要がなかったが、園児を送る馬車に乗り、その馬車が園に戻ってきてから家にとことこと帰って行くということをしていた。

ちなみに北区は川を越えると埼玉県、普通の道路でも大八車を引いた馬車をこのころは見ることができた。その荷物は肥桶だった。また、道路に馬糞も落ちていた。

March 25, 2021

思い出の記のスタートにあたって

自分とは何だろう?たいそうな話ではないが、思い出を綴ってみよう思い立った。

記憶は一体どこまでたどることができるのだろうか。

新小岩で生まれて、多分まもなくだと思うが、赤羽に引っ越したようだ。
ここでの記憶は、台風か何かで畳を上げたということ。
もしかしてこの台風はキティ台風かも知れないが、あやふや感が拭えない。

こんな調子で、とりとめもなく記していこうとおもう。